奈良県生駒市

あすか野自治会

背景
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あすか野の概要・歴史

概要

  1. 所在地
    奈良県生駒市あすか野北及びあすか野南
  2. 世帯数及び人口
    1,964世帯・4,514人(令和5年3月1日現在)

歴史

(自治会発足20周年誌より転載)

 あすか野は、国の住居表示に関する法律等に基づき昭和53年3月10日、生駒市議会へ議案40・41号として提出され、同年5月30日、生駒市告示第27号及び同日付奈良県告示第146号によって、7月1日、上町自治区から分離、正式に単独自治区として新設された(生駒市役所調べ)。北大和地区(奈良盆地の北部丘陵、正しくは奈良山丘陵)は、昭和30年代から大阪など大都市のベッドタウンとして、大型建設機械の出現によってつぎつぎと開発されてきたが、当地も大規模な宅地造成が進められ、急激に家屋が新築され、新しい街が形成されてきた。

 「あすか野」の地名は、この造成の先にすでに飛鳥ゴルフ場がオ-プンしていたことにちなんで、開発業者によって名付けられたものと思われる。
 あすかの地名は、飛ぶ鳥のアスカとして全国に有名な奈良県高市郡明日香村を初め、県下に小字名は十ヵ所ほどあり、また京都府南山城村笠置の東にも“飛鳥路”と言う地名もあって、古代から「安宿(あすか)」「在処(ありか)」とも言われ、穏やかにまた安らかに住める郷(さと)として良い住みかであって欲しい、上代の人々の願いと希望を著したものだろう。

 あすか野の地誌を述べるに、その属した上町地区の地誌をまず調べてみよう。
 すなわち、旧大和国添下郡(そえしもこほり)北倭(きたやまと)村大字上町(かみまち)(明治30年、北生駒村の属する平群郡と合して生駒郡となる)は、富雄川の上流で東は登美山地(学園前丘陵―現在ほとんど宅地に開発され住宅街になっている)と西側は矢田山地に囲まれ、真ん中に富雄川が南に流れている自然美豊かな地域であって、明治24年出版の“大和国町村誌集”によれば、地域は南北25町(約2.8キロメートル)、東西もまた25町のほぼ四角形の地形、北は芋山で高山地区に接し、南は奈良市二名町の山地に囲まれた地形である。西の矢田山地は行者山(またの名は中ノ山、海抜254メートル、現在市総合公園付近)そのやや北に桧窪(ひのけぼ)山(248メートル)があり、生駒谷をへだてて生駒山を望見できる風光明媚な自然環境に恵まれた地域であった。

 明治17年“大日本国誌”編集開始による調査によれば、上地区は税地田81町、畑12町、山地84町、戸数162戸、人口792人と記録されている。
 また神武天皇、饒速日命(にぎはやひのみこと)、長髓彦(ながすねひこ)など記紀神話に包まれた伝承の地でもある。
 古代縄文土器の出土からも、上古から当時すでに人が住みついていたと考えられる。
 咲く花のにおうが如しとうたわれた平城京の時代は、生駒の地は大和中央部から「西の山中」と呼ばれ、文化の波も押し寄せることも少なく、行基菩薩の墓及び平群に古墳群が多くあるように墳墓の地であったようだ。万葉集に防人の歌として数首残っているが、何れも通過地点として歌われており、この土地を盛り込んだ歌は見当たらない。最近、万集の歌が取り上げられ、上町地区2ヵ所に犬養孝先生揮毫の万葉秀歌

“妹がりと馬に鞍置きて生駒山うち越え来れば紅葉散りつつ”
 (万葉集巻10、2201 総合公園内)

“君があたり見つゝも居らむ生駒山雲なたなびき雨は降るとも”
 (万葉集巻12、3,032 四季の森公園)

の石碑が建立されている。中世、近世を通じてこの地域は歴史的な大きな出来事もなく、ひっそりとした山間部であったと思われる。

 近世に入ると、資料によれば、まず慶長郷帳(1600年代)の村高は751石余、また元和元年(1615年)には郡山藩(水野勝成領)から寛永6年(1629年)松平忠明領の頃は、上町(旧上村)の村高は945石余と記されている。
 江戸中期、領主は交替し、柳沢氏が入部して以降も大和郡山藩に属し、明治維新から廃藩置県に至るまで、米の生石高はほぼ横ばい状態であったと思われる。

 上町地区の土壌は、富雄川流域の沖積層で良質土壌とは言えず石高は多くないが、米の生産に適し、矢田山地の湧水と富雄川の清流と相まって産出する米の質は非常に良く、すし米、酒造米として好評を得ていたようだ。周辺の丘陵地帯は、かつては中腹から山頂にかけて酸性土壌に強い赤松がみごとな林相を呈し、秋ともなれば香り高いマツタケが豊富にとれ、昭和の戦前まで富雄川のホタルとともに優雅な農林地帯であったといわれる。

 奈良時代より難波への道を始め、枚方・京都に通じる磐船街道、清瀧街道、奈良街道、郡山街道等、旧道の発端は上町中央部で交叉し、交通の要衝として茶屋、居酒屋、よろずや等の店が上町集落に多く構えられ活況を呈していたようだ。

 幕末から明治維新にかけての混乱と改革の波は、平穏なこの生駒地区の山里にも押し寄せ、高山地区の“駕籠訴”、北生駒村(現生駒市中央部)の旗本松平氏領で起こった“矢野騒動”等の百姓一揆が起こったが、当上町地区の郡山藩領ではこれら一揆は記録されていない。

 大正3年(1914年)、大軌電車(現・近鉄)の開通に伴い生駒地区は交通が便利になり、人の往来も激しく活気を呈するに至った。上町地区からは富雄駅に近く(約3~4キロメートル)、大阪、奈良方面へ大変便利になった。しかしながら、明治―大正―昭和の戦前までは余り人口も急増することなく、静かな純農山村として推移したが、がぜん戦後30~40年代以降、大都市のベッドタウンとして脚光を浴び、急激な開発の波をかぶることになった。

 上町の名称は中世荘園として、「上鳥見庄(かみとみしょう)」に由来すると言われ、垣内としては蛇喰、掛、谷、庄、稲葉、白谷、西村及び出垣内からなり、うち西村地区の通称、平井、寒谷(かんたん)、三ノ谷、菅田の一部の主たる雑木林、小溜池、田畑池が戦後40年代後半、大手不動産会社によって造成され、宅地、道路、公園、学校、集会所等の完成によって「あすか野」として新興住宅地が出現するようになった。